【ボスニア虐殺20年の追悼式典、セルビア首相に投石】
【AFP=時事】 1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中、ボスニア東部スレブレニツァでイスラム教徒8000人近くがセルビア人勢力に虐殺された事件から20年を迎え、11日に追悼式典が行われた。
しかし出席したセルビアのアレクサンダル・ブチッチ首相に群衆から石やペットボトルが投げつけられる騒ぎがあり、首相は退席を余儀なくされた。
スレブレニツァでの虐殺は、欧州で発生した残虐行為として第2次世界大戦以来最悪とされている。
紛争ではボスニアの3民族が内戦に突入し、セルビアはその最中から終結後にかけてボスニアのセルビア系住民を支持していた。
この日の式典でブチッチ首相は、虐殺の犠牲となった未成年者を含む男性イスラム教徒たちの慰霊碑に献花したが、その際に群衆が「神は偉大なり」と叫んで首相に石を投げつけ始めた。
首相は群衆から罵声を浴びせられる中、護衛らがさした傘の下に逃げ込んだ。
新たに身元が判明した犠牲者の埋葬に参列者の注意が移り、イスラム教指導者(イマーム)の祈祷が行われると、群衆の怒りはようやく収まった。
(略)
ブチッチ首相は騒ぎの後、セルビアの首都ベオグラードに戻った。首相は記者団に対し、投げつけられた石が口元に当たったものの、けがはなく、眼鏡が割れる程度にとどまったことを明らかにした。
また、「セルビア人とボシュニャク人(イスラム教徒)の間に真の友好関係を築きたいという、われわれの誠実な意図が一部に認められなかったのは残念だ」と述べた上で、「(ボスニアのイスラム教徒に)引き続き手を差し伸べ、和解政策を続ける」と明言した。
※スレブレニツァの虐殺 紛争に至るまで
> ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年までユーゴスラビアの連邦構成国であり、宗教の異なるボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の3民族が人口比率の上で拮抗していた。
1990年にユーゴスラビアが民主化され、複数政党制が導入されると、その構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナではそれまで禁じられていた民族主義勢力が選挙で勝利を収め、ボシュニャク人のアリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に選出された。
当時のセルビアはユーゴスラビアの一部であった一方、クロアチアは既に独立を果たしており、ボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人とクロアチア人は独立を望んでいた。
1992年には独立の可否を問う住民投票の結果を受けてボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。
これに対して、数の上で最大となるボシュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人とセルビア人の民族主義者はボスニア・ヘルツェゴビナの中央政府を去り、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にそれぞれ民族独自の共同体ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国およびスルプスカ共和国を設立し、両者とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。
> ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年までユーゴスラビアの連邦構成国であり、宗教の異なるボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の3民族が人口比率の上で拮抗していた。
1990年にユーゴスラビアが民主化され、複数政党制が導入されると、その構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナではそれまで禁じられていた民族主義勢力が選挙で勝利を収め、ボシュニャク人のアリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に選出された。
当時のセルビアはユーゴスラビアの一部であった一方、クロアチアは既に独立を果たしており、ボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人とクロアチア人は独立を望んでいた。
1992年には独立の可否を問う住民投票の結果を受けてボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。
これに対して、数の上で最大となるボシュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人とセルビア人の民族主義者はボスニア・ヘルツェゴビナの中央政府を去り、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にそれぞれ民族独自の共同体ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国およびスルプスカ共和国を設立し、両者とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。
ソース:AFP BB NEWS
記事元:【国際】ボスニア虐殺20年の追悼式典、セルビア首相に投石 [H27/7/12]